証言: 近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた長州の大陰謀で成立した(1) 

日本人が知らない近・現代天皇制の驚異の真相が暴露された!
証言: 近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた
長州の大陰謀で成立した (1)   
=最新更新版=


(1)と(2)一緒に掲載は: http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/24.html

ここでは、筆者による歴史的評価は(2)を参照
                                   
以下に地家康雅 [じけやすまさ]氏から送られて来たこの件に関する証言の05年最新更新版を紹介する。                        
前田 進  jcfkp201@ybb.ne.jp

大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について
                        地家康雅 
 
                           (2005バージョンアップ 2005年6月26日作成)

                     (1)
私、地家康雅(引用注:下記の証言者で、以前に南朝系とされていたが、実は南朝と血統のない地家作蔵の3男地家朝平の子孫)は、地家寅吉大室寅之祐東京明治天皇の弟朝平の玄孫です。
私の名前を出してもかまいません。以下の情報をのせていただけたらありがたい。

「萩」へマンジュウつくりにいってくる
(「マンジュウつくりに行く」とは「人の死体の山を築きに行く」と言う意味で平たく言えば「人切りしに行く」という意味。ようは1865年1月(明治天皇かぞえ年16歳)の高杉晋作による功山寺挙兵に大室寅之祐(当時寅吉)が参戦すると言う意味。)

一、発端
明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社から公刊し9年経つが、(裏切られた三人の天皇---明治維新の謎)一般人は知らず、歴史に興味を持つものにとって、このことは実に計り知れない衝撃であった。2chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。自信ありげな発信者は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。残りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あるいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。
情報は大室天皇説と北朝説に大別される。前者は、「明治天皇は大室家から出たのみならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」であると言うもので、後者は「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称することにおいては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し共通の理解になっている事が伺えた。
これに橋本龍太郎の出自が加わった。すなわち、「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である」との事。 大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張することになる。論点は更に皇位継承問題に及んだ。

◆山口県田布施町麻郷の大室さん
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。
そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわかっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は、A. 寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか? 
B. 本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? 
と言う事であった。その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の大室家)は1800年頃から始まり、文政時代に初代大室家当主が死去(系図には大室家初代某の父は麻郷某というかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目大室文右衛門が家督を継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の息子大室弥兵衛(1813年6月14日~1879年)が文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日~1903年2月1日)と結婚し大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し2人目は1853年に同じく早死してしまった。(以上地家の西円寺の過去帳による)(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)
大室近祐がワカルといってもせいぜい1863~1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(1400~)から24代500年以上も継続してるとは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)
Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵が地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子となり「地家」姓を賜る。地家作蔵となのり田布施町麻郷地家に住み着いた。1843年頃、興正寺昭顥(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた(興正寺昭顥坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(生年月日は不明~1887年4月24日)と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1824年生まれか?)と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)
  1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父)
 >>その後、1854年の春頃(4月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭顥坊(照景?)の家か??
  (京都には帰ってないであろう)長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。(作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)
  1855年1月?頃(祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ)
 地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没)(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説)。寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった)
そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常にかわいがって日々をすごしたという。(1863年8月~9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。
  弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。麻郷村の人間が手分けして探した。(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、遂に行方を白状しなかったという。)
◆行方知れずになってから(1866年10月末頃以後の大室寅吉)
情報 1.
大室寅介について(大室寅介とは庄吉のこと)
 京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない) この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!
大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として1868年1月下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)
情報 2. 大室虎助について
(大室虎助とは大室弥兵衛の弟?大室惣兵衛が萩に在住していてその息子のこと。 松蔭ははじめ南朝満良親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)(虎助は京都明治天皇睦仁と同じ年で新撰組に殺された)
新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日
記』『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。
その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは満良親王系の大室虎助のこと。庄吉も寅吉も繰り返しになるが田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊を卒業していたと言う。)
  こんなのあったよ!
大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったかも?こう考えると正式に明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)
 不動堂
木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。
慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。
 木津屋橋油小路 不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。 伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ
衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。
 情報 3. 大室寅助(変名)(大室寅之祐のこと)について
(大室寅助とは行方知れずになった1866年10月末頃から1867年10月頃までの大室寅之祐(寅吉)の変名のことで、スヘ(基子)と大室弥兵衛の間の1歳数カ月で死んだ大室家4代目の血統の寅助になりすましたわけ。)(情報2にも書いたが庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子でスヘの連れ子なので大室家の血統ではないから。) 
寅吉(明治天皇)は寅助(早死)ともとれる名前を名乗った。そこには節目の改名というより周囲が大室本家の血統である虎助(斬殺)や寅助(早死)と混同するのを誘うような積極的な作為が感じられる。事実、先にも書いたが後の田中光顕伯爵も明治天皇の入れかえは承知していたが正体は萩の満良親王系の大室虎助(斬殺)の方だと思いこんでいた。 寅吉が注目を浴びだすのは1863年頃、高杉が奇兵隊を結成して入隊してから。前にも書いたが1863年から1864年にかけて伊藤博文が麻郷の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863年ころから寅吉が玉として浮上してきた。(伊藤の玉が寅吉。)
(情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。
>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めて
いた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。
  そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉)はこのころ大室寅助と改名し一時、繰り返しになるが松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867年3月下旬「玉」は田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅助(寅之祐)が上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、二本松の島津屋敷に入った。しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は1867年10月下旬、田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。
  それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ)1867年11月倒幕出兵軍、海路進発11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。)11月13日藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の巨船にのって西宮へ。後上陸。
(1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)11月25日長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した。
  先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。大室寅吉が大室寅助-寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような状況のもと、倒幕軍の進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。)(今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 
  午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したというのはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。
  その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。
  旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われた。この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。)慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。
1. 天皇すり替えに関しての疑問
  天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。
2.解説
  いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それがどうも違うみたいなのです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件や井伊大老の暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。案外庶民と言うものはばかじゃないのですよ。鹿島曻氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、(勝てば官軍)旧暦明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所で「新明治天皇」として迎え入れられ即位した訳です。
それまで玉(大室寅之祐)は京都の薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、まえに書いたとおり孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたというより何度でもいいますが鳥羽伏見の戦いに勝利した薩長軍が睦仁(京都明治天皇)を御所から追放し同じく京都御所に維新の時、大室寅之祐が迎え入れられたと言う方が正しい。
慶応3年(1867)年1月、京都明治天皇(睦仁親王)は即位しました。しかし京都明治天皇の方も中山慶子が流産したため、ひとさらいつかって拉致してきた子を京都明治天皇(睦仁)にしたてたから睦仁が即位した次の日から京都御所内はパニックになった。そこで睦仁は中山忠能と中川宮朝彦らに京都御所のまつりごとをまかせ、約1年間中山慶子の実家の中山忠能邸でひきこもり過ごすことになった。
慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を上皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、いまでいう総理大臣になるつもりだった。だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と相談し、坂本が慶喜を総理大臣にするため木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすばせた。つまりはじめは、いまふうにわかりやすく例えたら薩摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を作ろうとした。がその後長州(木戸)がこれに反対。 木戸も西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。
慶喜に権力を持たせると幼帝(寅之祐)の命が危ないと…。さらに慶喜の背後にフランス軍がついて薩長の背後にイギリスがついていて、イギリスは日本がフランスの植民地になるくらいならイギリスの植民地にしたいと考えイギリスのパークスが、慶喜と背後のフランスをつぶすために「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。坂本と中岡が慶喜追討に反対し邪魔になったため伊藤、山縣、井上馨ら3名に暗殺された。(龍馬暗殺を指示したのは木戸)(勝も暗殺される予定だったが必死になって逃げ、命だけはたすかった。)薩長軍にイギリスが加担し慶喜軍にフランスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)勃発。兵の数では慶喜軍のほうが薩長軍のより3倍もいたが薩長軍の新型兵器アームストロング砲で慶喜軍と中川宮は敗れ去った。上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、寅之祐が天下をとったわけ。
(1868年1月15日以前の)即位当初の少年京都明治天皇(写真
  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。基本的に「佐幕攘夷」。(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、倒幕開国派(薩長)
にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。
即位後1868年1月15日からの明治天皇◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html

明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。左利きになったのは、寅之祐がかぞえ5歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。
基本は「倒幕開国」派。(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、明治時代軍隊を馬上豊かに閲兵した。
大室寅之祐の東京明治天皇(写真)(薩長同盟成立の記念写真) 
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html

(1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛)
◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報
興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。
Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭顥(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血統ですか??
A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭顥ースヘ)
Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??
A.と言う事になりますな。結論から言えば。
Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??
A.そうです。
Q.大谷(興正寺)昭顥←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着いたという説は?
A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。
Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??
A.間違いではありません。
Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?
A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。
(恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係していますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。  
 (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘQ法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(先生に質問)
A現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。
本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られない筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。
 新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。
 幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。
 佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だが、この事は明治天皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか?? これでやっと謎が解けたね。
前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家ではなくて、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもん
ね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、朝平だった。
スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なのだね。
◆作蔵について(人生何があるか分からない)
作蔵はおよそ満20歳の頃、スヘ(何と満13歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵がおよそ25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、子どもを引き取ったスヘが満41歳の大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇に即位する事が出来た。
前にも書いたが孝明天皇と中山慶子との間の子ども「本当の明治天皇」は流産した。だから京都明治天皇も人攫いつかって誘拐してきた男児をすり替えて京都明治天皇とした。しかも虚弱体質で孝明天皇の子ではないから即位当初から御所内が大混乱になった。当面は中川宮朝彦と中山忠能らが御所の政治をしきったが慶喜軍が鳥羽伏見の戦いでやぶれると1868年1月10日のあけがた京都明治天皇(睦仁)は京都御所から追放された。(睦仁の京都明治天皇は亡命したというほうがてきせつか?)(その後、まえにもかいたが比叡山方面の某寺に入り僧として維新後も生き延びた。)
一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)前にも書いたがこれが本当の大室家当主大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅吉(寅之祐)はかぞえ6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢女性大室文右衛門の娘ハナは前に書いたとおり大室弥兵衛の本妻だが寅吉(寅之祐)はこの継母(ままはは)に育てられた。 さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業者で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマン)を田布施町麻郷から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る仕事で営んでいたみたい。
1849年頃? その利益で既におよそ25歳頃と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。以前は違う所に住んでいたみたい。だからそれ以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら) 「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。前にも書いたが、だから戸籍を作る時自分の家の地名を自分の家の苗字にしたようだ。(「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。)
西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。 明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京から麻郷にやってきて位牌を京都へ持って帰った)葬儀は西円寺。祖父の話によると明治天皇の実の父だから作蔵の痕跡をけすため愛子が東京からきたらしい。だから、西円寺に作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載は無い。
明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」先生)目的は作蔵の葬式で西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を(余計なことをつげぐちして)漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。 京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によると、スヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」先生調べ)ところで明治天皇の写真は1枚しか残ってないらしい。なぜなら天皇をすりかえたことが国民にばれるとこまるかららしい。
大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、「わしがかぞえ12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」 という。 石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。 このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。
  孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。
大室寅之祐明治天皇と、追放された京都明治天皇睦仁(孝明天皇の実子とされてる)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利
義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。
やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。 (便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。) こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。 ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、>大室寅之祐の明治天皇と京都明治天皇睦仁は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。
当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。 実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。  (2へつづく)
続きは: http://tatsmaki.at.webry.info/200511/article_4.html




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